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東京地方裁判所 昭和33年(特わ)415号 判決 1960年1月20日

被告人 鼓敬美・柳原兼光こと柳原兼作 外三名

主文

被告人柳原を禁こ六月に

同田村、同武井を禁こ四月に

各処する。

但し右被告人等に対し、本裁判確定の日から二年間右各刑の執行を猶予する。

被告人安井は無罪

本件起訴状第三(一)(二)記載の公訴事実(後記の「無罪の言渡をする公訴事実と無罪の言渡をする理由」の項第一参照。)について。

被告人柳原、同田村、同武井は無罪

訴訟費用中、証人柴田孫次郎、山崎誠一、松林義雄、堀井毅、剣持信和、広瀬精一(第七回公判分)、片野昭、三浦純、小池保(第十回公判分)、牛窪晃(第十回公判分)、大久保章に各支給した分は、被告人柳原、同田村、同武井の連帯負担とする。

(罪となるべき事実)

被告人柳原は、主として東京都政関係者を購読者にもつ日本議会新聞社(いまだ会社設立登記のない社団)の社長として、同新聞の編集、発行、販売等の業務を総括していた者、被告人田村、同武井は、同社の相談役として柳原をたすけ、同社の営業上の重要事項の決定に参画すべき地位にあつた者であるところ、被告人等三名は、日本議会新聞社の社員である小池保、牛窪晃、三浦純、広瀬精一等と共謀のうえ、近く施行される情勢にあつた衆議院議員総選挙(同選挙は昭和三十二年五月二十二日施行)に東京第一区から立候補する決意を有するとみられた田中栄一に当選を得させる目的をもつて、同人の立候補に関する報道および評論を掲載した日本議会新聞(号外)を通常の方法によらないで頒布しようと企て、昭和三十三年四月三日から六日までの間「田中栄一氏出馬、元警視総監、内閣副官房長官、東京第一区安井氏身替り」という標題のもとに、田中の経歴等を掲げ、同人が安井知事の身替りとして、東京一区より出馬することに決定し、自民党選対委は、田中を公認することに内定した模様である旨および同人は東京都政に精通しており、国会において都政のために十分な活躍をするものと早くも各方面から期待されている旨を記載し、同人の写真を掲載した日本議会新聞号外と題する新聞紙(昭和三十四年証第六四五号の一ないし六参照)約九万枚を、主として右第一区内の地域において臨時の「号外屋」を使つて通行人等に手渡し、あるいは飛行機から広くまき散らす等同新聞の通常の頒布方法と異なる方法により、同区内の選挙人多数に頒布したものである。

(証拠の標目)(略)

(被告人武井が共謀に参加したことについての証拠説明)

被告人武井は、当公廷において前記号外頒布の共謀に加わつた覚えはないと主張している。しかし、次の諸点にかんがみ、同被告人も右の共謀に加わつたと認めるほかはない。

(1)  武井の各検察調書に、武井が柳原、田村、牛窪、三浦、広瀬等と前記号外を通常の方法によらないで頒布する相談をした旨の具体的な、詳細な記載がある(特に昭和三十三年七月二十四日の調書に詳細な自白があり、この自白はその後の調書でも維持されている。)ばかりでなく、柳原および田村の各検察調書にもほぼ同旨の記載があること。(柳原は当公廷においても、武井が号外頒布の相談に加わつていたと述べている。)

(2)  更に右各供述が真実であることをうかがわせるに足りる次の状況が認められること。

(イ)  武井は都庁内における多数の新聞経営者中の実力者として柳原、田村の両名と並び称される地位にあり、両名とともに都政記者クラブ(庁内紙の記者のクラブ)の世話人となり、かねての懸案である、庁内紙の統合整理のため、日本議会新聞社(以下議会新聞という。)の設立に努力し、同社設立後は自らその相談役に就任し、同社の事業その他経営上の重要事項については相談をうける立場にあつたこと。(柳原、田村、武井の各供述参照。武井は同社のため私財を費やしたとさえ供述している。武井が同社設立までの相談役であつた旨の同人の供述は信用できない。)現に武井は昭和三十三年三月頃の同社の昼食会(すなわち、昼食時に開かれていた首脳部の会合)にはほとんど欠かさず出席しており、その後もたびたび同社の事務室や柳原の部屋に顔を出していること。(牛窪晃、小池保、広瀬精一の各証言、武井の供述参照。)

(ロ)  都政記者クラブあるいは議会新聞に対する寄附金、賛助金等の名義で金を集めるについては、武井は、常に柳原および田村と行動をともにし、受けとつた金も大体三人の間で等分していたこと。(柳原、田村、武井の各供述参照。)

また本件号外の頒布は、創刊直後の議会新聞を宣伝するかたわら、田中栄一の当選に役立たせることによつて、これまで賛助金の供与を受け、将来もこれを受けようとする安井誠一郎あるいは安井謙の歓心を買う意図をもつて行われたものとみられること、(前掲各証拠参照)。したがつて、右号外の発行頒布は、議会新聞の事業として相当重視され、田村はもとより議会新聞の首脳者のほぼ全員がこの相談にあずかつており、田村と並び称される地位にあつた武井だけがこれに無関係であつたというのは不自然であること。(柳原、田村の各供述、牛窪晃、小池保、三浦純、広瀬精一の各証言参照。もつとも武井も当公廷において、「四月三日の午後議会新聞の事務室で小池保、三浦純等から号外のゲラ刷りを示されて、そのような号外を出すということを聞き、『宣伝によいじやないか』『特定の候補者をこうして号外に出してもいいのか』等と述べ、三浦等と話し合つた。その後やはり議会新聞の事務室で広瀬か誰かから、飛行機でまくという話を聞いた。」という程度の供述はしている。)

以上要するに、各種の証拠を綜合すると武井も本件号外の発行頒布の相談にあずかつていると認めるほないが、武井の自白その他の者の供述からもうかがわれるように、武井は右相談の席でも積極的に発言せず、その後も頒布等について実際上ほとんど関与しなかつたと認められる。ここに武井が当公廷で弁解する理由および武井の存在をはつきり記憶しない者(三浦純、小池保)のある根拠があると思われる。

(主位的訴因を排斥した理由)

(一)  昭和三十三年四月一日創刊にかかる「日本議会新聞」という日刊紙(昭和三十四年証第六四五号の一一、一二参照)が公職選挙法第百四十八条第一項にいう「新聞紙」にあたることは疑いない(同新聞が同条第三項にいう「新聞紙」にあたるかどうかは問題であるが、この点は、本件に関係がないので判断しない。)が、本件で問題となつた「日本議会新聞号外」と題する文書(同号の一参照。以下「号外」という。)も「日本議会新聞」を発行している「日本議会新聞社」が「日本議会新聞」という題字を用いて発行した文書であつて、やはり同条第一項にいう「新聞紙」の概念に包含されると解される。なぜなら、本件号外には、後記のとおり、その発行の動機、頒布の方法等について問題はあるが、客観的に観察するかぎり、この号外を「日本議会新聞」と全く性質を異にする別個の文書とみることはできないからである。

また本件号外の記載内容は、それ自体を冷静に客観的に観察すると、社会通念上のいわゆる報道及び評論にあたること明らかで、同条第一項にいう「報道及び評論」の範囲に属すると解される。なぜなら右の記載は、田中栄一の記事に重点をおき、あまつさえ同人の写真をかかげる等同人のための選挙運動的記事の色彩がこいが、だからといつて、この記事自体が全く客観性を欠いた、特定候補者の当選だけを目的とする宣伝文言にすぎないと断ずることはできないからである。(号外の記載参照。「報道及び評論」と認められる記事も、結果的には、特定候補者のための選挙運動になることがありうる。この点後述。)

再言すると、ある文書またはその記載が公職選挙法第百四十八条第一項にいう「新聞紙」または「報道及び評論」にあたるかどうかは、あくまで問題の文書自体を客観的に観察して判断すべきであつて、その文書がどういう意図あるいは目的で作成、発行、頒布されたかを、右の判断の基準とすることは許されない。作成、発行、頒布にあたつた者の主観が異なることによつて同様な内容の文書が「新聞紙」あるいは「報道及び評論」にあたつたり、あたらなかつたすることは、不合理であるばかりでなく、憲法の保障する「表現の自由」(憲二一条参照)を危うくするおそれがある。選挙の公正を保つことが大切なこと、したがつて表現の自由を濫用する不当な選挙運動を取り締まることが必要なことは、いうまでもない。しかしこのためには、後に指摘するとおり、別に多数の取締規定があるのであつて、これによれば十分である。

以上の観点から、裁判所は、本件号外の頒布については、公職選挙法(以下法という。)第百四十八条第一項本文により、同法に定められた選挙運動の制限に関する規定(第百三十八条の三の規定を除く。)が適用されないものと解し、右の頒布が法定外文書の頒布および事前運動にあたるという主位的訴因を排斥したのである。

そこで次に、右の見解に反する検察官の意見(論告要旨参照。)を批判し、この過程で法第百四十八条の趣旨および裁判所の見解を具体的な形で述べることとする。

(二)  検察官の意見の要旨は、「日本議会新聞が法第百四十八条第一項にいう新聞紙であることに異論はない。しかし、本件号外が同項の新聞紙といえるかどうかは、別問題である。これを肯定することができるためには、単に本紙と同一の題字を用い、同一の外観を呈しているだけでは足りない。本紙と同様社会の公器としての使命を有すると認められる程度の実質を備えたものでなければならない。そうでなくては、新聞紙として法の保護を受けるに価いしない。したがつて、ある号外が同項の新聞紙と認められるかどうかについては、個々の号外の発行目的ないし必要性、発行状況、記載内容、部数、頒布方法等一切の事情を検討し、慎重に判断する必要がある。この観点から検討すると、本件号外は同項の新聞紙にあたらない。かりにあたるとしても、明らかに同項にいう報道及び評論の範囲をこえたものであつて、同項の保護を受けるに価いしないものである」とし、その理由として、「本件号外は、本紙の発行部数が二千ないし五千であるのに対し、これと段違いの十万枚も発行されている。四月三日の本紙に出た記事とほとんど同一で、号外本来の速報性に欠けている、その記事は号外を発行してまで周知させる必要のないものである。大部分が無償で配付されている、頒布方法が異常である、主として東京第一区で頒布されている等種々の点において普通の号外と異つている」ばかりでなく、「専ら田中栄一に当選を得させることを目的とした特殊な内容のものである」ことをあげている。右の意見は、本件号外の性質をきわめて実際的、具体的に論じたもので傾聴に価いするものをもつている。しかし、ことは、憲法の保障する「表現の自由」にも関する重大問題である。そこで、更に広い観点から、法第百四十八条の趣旨、同条と他の条文の関係とを掘りさげて考えてみたいと思う。

(三)  思うに、法第百四十八条第一項にいう「新聞紙」とは、特定の人または団体により、一定の題号を付して、比較的短い間隔たとえば日刊、週間、旬刊等の形で、反覆して発行され、不特定または多数の人に、有償で頒布され、あらゆる社会的問題について事実を知らせる「報道」およびこれらの事実についてその背景、解釈、意見等を伝える「評論」をその主要な内容とするのを通常とする文書であると解される。なぜなら、このように解することが社会通念に合致し、かつ、同条の趣旨に適合するからである。同条の趣旨は、社会通念上新聞紙とみられる文書、すなわちその性格上多かれ少なかれ記事の客観性を要求される文書については、これに報道、評論という形で選挙に関する事項を掲載することを許しても特定候補者に当選を得させることだけを目的とする、主観的な宣伝記事に堕する等の弊害の面は比較的少なく、人々に選挙に関する必要な判断の資料を提供する等有益な面の方が多いとするにあると思われる。ただ現実の問題として選挙については、各候補者間の競争ははげしく、勢いのおもむくところ、種々の行きすぎをまぬかれない。したがつて、右の報道、評論も、これを無制限に放置するならば法の趣旨とするところは反対の結果を招くおそれがある。しかし、この規制については、表現の自由の問題にも関連し、あいまいな態度は許されない。法が一方で選挙運動の制限に関する一般規定(第百三十八条の三の規定を除く。)の適用を排除し、他方で明確な基準をもうけて、これを制限しようとしているのは、このためである。詳言すると、法は、明確な基準によつて、選挙に関する報道及び評論(その伝達方法をふくむ。)の限界を劃するとともに、この限界内での報道及び評論の自由を保障することによつて、「表現の自由」と「選挙の公正」という二大理想の調和をはかつていると解されるのである。

(四)  法は、新聞紙による報道及び評論について

(イ)  選挙運動の期間中および選挙の当日にかぎり、法第百四十八条第一項第二項の適用を受ける新聞紙の資格を特に厳重に制限し(同条第三項)、もつて一般的に選挙目あてのための新聞紙による報道及び評論を取り締り(なお、この点については、第二百一条の十三参照。)

(ロ)  虚偽の事項を記載し、または事実を歪曲して記載する等、表現の自由を濫用して選挙の公正を害してはならないと定め(同条第一項但書)(なお第二百三十五条参照)

(ハ)  通常の方法で頒布し、または都道府県の選挙管理委員会の指定する場所に掲示する以外の方法でその内容を伝達することを禁止し(同条第二項)

(ニ)  何人も当選を得させる等の目的をもつて、新聞紙に対する経営上の地位を利用して、これに選挙に関する報道及び評論を掲載し、または掲載させてはならないと定めている(第百四十八条の二第三項)

しかも、右各条項違反に対する法定刑は、第百四十二条または第百四十六条違反に対する法定刑と等しくまたはほぼ等しいのである。

これ等の規定は、先にも一言したとおり、新聞紙による真の報道及び評論の格別の重要性にかんがみ、その自由を不当に侵害する結果とならないように慎重に配慮しつつ、明確な要件を定めて劃一的に規制しようとしたものと解される。

したがつて、これらの規制の前提となる法の重要な基本概念の一つである第百四十八条第一項の「新聞紙」にあたるかどうかは、特に明確な基準によつて判断されることが要求される。「報道及び評論」についてもこれに準じて考えられる。この観点からすると、いやしくも客観的に「報道及び評論」を掲載した「新聞紙」の形式を備えているとみられる文書については、たといそれが実質的に当選目当ての宣伝であると推測される場合にも、法第百四十八条第一項但書、同条第二項、第百四十八条の二等により規制すべきであつて、安易に法第百四十八条第一項本文の適用を否定することは妥当ではない。

以上のような法の趣旨、構造からみると、ある文書が法第百四十八条第一項の「新聞紙」にあたるというためには、その文書が、前述の定義にあたる「新聞紙」の発行者によつて、その新聞紙と同一の題号を用いて発行され、かつ社会通念上新聞紙と認められる体裁を備えたものであることを要し、かつ、それで足りると解される。同項の新聞紙について、これ以上の実質的要件を要求することは、新聞紙の概念をあいまいにし、法の趣旨に反する。本件号外も、右の観点から新聞紙にあたると解するのが正当である。

文書の頒布方法が、新聞紙の通常の頒布方法と異なることは、その文書が新聞紙であることを否定する根拠にはならない。このことは、法第百四十八条第二項が通常の方法によらないで頒布された新聞紙も同条第一項の「新聞紙」にあたることを前提としているところからも明らかである。

文書が無償で頒布されたことも、同様である。世上新聞紙の発行者が新聞紙の普及宣伝、読者へのサービス、その他の目的で、その新聞紙の題号を付し新聞紙の体裁を備えた文書を号外として無償で頒布する例は稀れでないからこれを理由に法第百四十八条第一項の新聞紙にあたらないというのは適当でない。選挙目当ての宣伝のための無償頒布は、頒布方法が通常でないものとして、同条第二項によつて取り締れば足りることである。頒布区域が主として東京第一区にかぎられていたことも、同様の観点から取り締まられると解される。また、文書の発行者が、特定候補者に当選を得させる目的をもつていたことも、その文書が新聞紙であることを否定する根拠にはならない。なぜなら先にもくりかえし説いたとおり、新聞紙であるかどうかは、あくまで、文書自体について、客観的に判断されなければならないことだからである。法第百四十八条の二第三項の規定は、客観的に「新聞紙による報道及び評論」とみられる事項についても、それが不当な目的でされたと認められる場合には例外的にその責任を追及しうるものとして、右のような場合を取り締る趣旨と思われる。本件号外の発行部数が特に多いこと、その内容が普通の号外にみられる速報性、必要性を欠いていること等は、本件の場合、頒布者の主観的意図を推認する資料にはなつても、その新聞紙性を否定する根拠にはならない。

(五)  第百四十八条第一項の「報道及び評論」の解釈についても同様のことがいえる。ある新聞紙のある記載が同条の「報道及び評論」にあたるかどうかは、その記載自体を客観的に考察して、それが社会通念上「報道」または「評論」の範囲に属するといえるかどうかによつて決すべきである。発行者が特定候補者に当選を得させる目的をもつて掲載したことは、その記載が「報道及び評論」であることを否定する根拠にはならない。(記載自体からみて、それが全く客観性を欠いた、特定候補者に当選を得させることだけを目的とした宣伝文言にすぎないことが明白であるばあいには、それを報道または評論ということはできないが、その理由は、そのような記載は、それ自体を客観的にみても、社会通念上報道または評論といえないからであつて、発行者の主観的目的が不当であつたからではない。)以上の観点から、本件号外の記事は、法第百四十八条第一項にいう「報道及び評論」の範囲に属すると認められる。

なお、証拠上本件号外が検察官の主張するように、もつぱら田中栄一に当選を得させる目的で発行頒布されたと認めることは困難である。柳原等にはたとえ副次的にせよ、前記のような報道、評論を掲載した号外を広く頒布することによつて、世人に日本議会新聞の存在を印象づけ、発刊早々の同新聞を宣伝する目的もあつたと認められる。(前掲各証拠参照)

要するに、本件号外は、法第百四十八条の第一項にいう「報道及び評論」を掲載した「新聞紙」にあたるものとしてその頒布は法第百四十二条に違反しない、またそれは、法第百四十八条第一項において第百三十八条の三を除く選挙運動の制限に関する法の諸規定が適用されないとされている趣旨からみて、法第百二十九条にも違反しないものと解される。したがつて、本件号外については、単にその頒布方法に問題があるものとして法第百四十八条第二項、第二百四十三条第六号が適用されるにすぎないのである。

(弁護人の主張に対する判断)

(一)  弁護人は、柳原等(柳原、田村、武井をさす。)の本件号外の頒布は、創刊早々の「日本議会新聞」を広く一般に宣伝するためにした行為であつて田中栄一に当選を得させるためにした行為ではないと主張し、柳原等も、当公廷においては、同趣旨の弁解をしている。しかし、罪となるべき事実の認定に供した各証拠、特に押収にかかる号外によると、柳原等に右の目的ないし意図がなかつたと認めることは困難である。証拠上推認される事の真相は、柳原等は、本件号外の頒布によつて日本議会新聞の宣伝をするかたわら、それを田中栄一の当選に役立たせることによつて安井等(安井誠一郎及び安井謙をいう)の歓心を買い、同人等からの日本議会新聞に対する賛助金の引き出しを円滑にし、あるいはこれを増額させる積りであつたと思われる。つまり柳原等には、日本議会新聞を宣伝する意図もあつたであろうが、同時に田中栄一に当選を得させる目的もあつたと認められるのである。もつとも柳原等としては、当時安井等から金をひき出すについて右号外の頒布を直接取引の対象とする必要はなく、同人等に対しても、その問題を露骨にもち出すようなことはしなかつたとみられる。(ここに本件の問題がある。この点は更に後述。)以上の理由で、この点に関する弁護人の主張および柳原等の弁解は採用することができない。

(二)  弁護人は、「もともと号外は、その性質上購読者以外の一般大衆に配付するのが当然である。したがつて、この配布方法として、一般通行人に配るとか、飛行機からまき散らすとか等の方法をとることは、なんら差支えない。このような方法を通常の頒布方法でないというのは誤りである。」旨主張している。しかし、先に詳論したところからも、明らかなように、本件号外を法第百四十八条第一項の新聞紙であるとするのは、この号外が同項の新聞紙にあたるとみられる「日本議会新聞」本紙と同一性を有すると認められるからである。ところが、同条第二項にいう「通常の方法で頒布し」とは、その規定の趣旨、体裁等に徴し、問題の新聞紙そのもの、本件についていえば、日本議会新聞本紙の「通常の頒布方法」をさすと解するほかはない。かように解さなくては、同条第二項の規定は全く無意味な存在となり、種々の弊害をきたすおそれがある。右の観点からするとき、本件号外の頒布方法が通常の頒布方法でないことは明らかである。以上の理由で、この点に関する弁護人の主張も採用することはできない。

(法令の適用)

法律に照らすと、被告人柳原、同田村、同武井の判示所為は、公職選挙法第百四十八条第二項、第二百四十三条第六号、刑法第六十条にあたるので、所定刑中禁こ刑を選択し、被告人柳原を禁こ六月に、同田村、同武井を禁こ四月に処し、刑法第二十五条第一項により本裁判確定の日から二年間右各刑の執行を猶予し、主文第四項掲記の訴訟費用は、刑事訴訟法第百八十一条第一項本文第百八十二条に則り、被告人柳原、同田村、同武井に連帯して負担させることとする。

(無罪の言渡をする公訴事実と無罪の言渡をする理由)

第一  無罪の言渡をする公訴事実の要旨は、次のとおりである。

被告人柳原、同田村及び同武井は、東京都庁内都政記者クラブにおいて日本議会新聞を経営するもの、被告人安井は、田中栄一とじつこんの間柄にあるものであつて、いずれも昭和三十三年五月二十二日施行の衆議院議員総選挙に際し、東京都第一区から立候補当選した田中栄一の選挙運動者であるが

第一  被告人安井は、

(一)  右田中栄一が東京第一区から立候補する決意を有することを知り、同人に当選を得しむる目的をもつて、未だ同人の立候補届出がない同年四月七日頃、同都渋谷区穏田二丁目三十五番地の自宅において、被告人柳原、同田村及び同武井に対し、同被告人等が小池保等と共謀のうえ同年四月三日から同月六日までの間田中栄一に当選を得させるため、「田中栄一氏出馬、元警視総監、内閣副官房長官東京一区安井氏身替り」という標題のもとに、同人の経歴等をかかげ、「同人が安井知事の身替りとして東京一区より出馬することに決定し、自民党選対委は同人を公認することに内定した模様である」旨及び「同人は、東京都政に精通しており、国会において都政のために十分な活躍をするものと早くも各方面から期待されている」との趣旨を記載し、かつ同人の写真を掲載した日本議会新聞号外と題する法定外選挙運動文書約十万枚を、主として、右第一区内の地域において通行人等に配り、飛行機よりまき散らす等の方法により同区内の選挙人等多数に頒布して選挙運動をしたこと(予備的訴因としては、右事実中「日本議会新聞を経営するもの」とあるを「日本議会新聞社たる会社形態の組織を作り、その最高責任者の地位にあるものとして日本議会新聞と題する新聞の編集発行、販売等その経営一切につき統轄掌理していたもの」と、「日本議会新聞号外と題する法定外選挙運動文書約十万枚」とあるを「日本議会新聞号外と題する文書約十万枚」と「右第一区内の地域において通行人等に配り」を「右第一区内の地域において同紙の通常の頒布方法とは全く異なつた方法である同社員及び号外屋と称する者を使用して通行人等に配り」とそれぞれ訂正しているほか、他の部分を援用している。)の報酬並びに費用及び将来も田中栄一に当選を得しめる目的の記事を前記日本議会新聞紙上に掲載すること等の選挙運動をすることの報酬として、現金二十五万円を供与し、

(二)  同年五月二十九日頃、右同所において、被告人柳原兼作、同田村忠義及び同武井実に対し、同被告人等が右の選挙運動をしたことの報酬として現金三十万円を供与し、

第二、被告人柳原、同田村及び同武井は、共謀のうえ、

(一)  第一(一)の日時、場所において被告人安井から同記載の趣旨のもとに供与されることの情を知りながら現金二十五万円の供与を受け

(二)  第一(二)記載の日時、場所において、被告人安井から、同記載の趣旨のもとに供与されることの情を知りながら現金三十万円の供与を受けたものである。(被告人等に対する昭和三十三年八月十日付起訴状記載の事実、昭和三十四年十二月三日付被告人等に対する予備的訴因並びに罰条の追加請求書の記載参照。)

第二  被告人等は、当公廷において、「起訴状記載のとおりの日時、場所で、同記載の各金員を授受したことは間違いないが、その趣旨は柳原、田村、武井(以下この三人を柳原等という。)が起訴状記載のように日本議会新聞号外と題する文書を頒布し、または将来田中栄一に当選を得させる目的の記事を日本議会新聞(以下議会新聞という。)紙上等に掲載すること等に対する報酬ではなく、議会新聞に対する賛助金であつた。」と述べている。

選挙違反、贈収賄等の事件について、公判において金員授受の趣旨が争われるのは、むしろ普通のことである。したがつて、この種事案においては、被告人等の公判における供述はあまり信用できない、これにひきずられると事案の真相を見あやまるおそれがあるとの言さえ一部に行われている。検察官も論告の際かような観点を示唆した。一般的に論ずるかぎり、右の考え方にも一理ないとはいえない。実際この種事案の被告人等の中には、明らかに弁解のための弁解とみられるような陳述をする者も、決して稀れではないのである。しかし、本件における被告人安井の陳述には、当初から単なる弁解とはみられないふしがあつた。なぜならその陳述は、おおむね、具体的事実に即した弁解として一応筋が通つていたばかりでなく、その陳述の態度も真摯誠実で、そこには、免れて恥じないような様子がうかがわれなかつたからである。

これに対し、他の被告人の陳述の態度陳述の内容等については若干問題はあつたが、その陳述は、被告人安井のそれと同様おおむね具体的事実に即してされ、やはり単なる弁解のための弁解とは認められなかつた。とはいえ、本件のような重大事案について、軽々しく被告人等の弁解をいれ、事案の真相を見あやまることがあつてならないこと、もちろんである。裁判所が二十数回の公判を重ね、検察側、弁護側双方申請の多数の証人、証拠物等を取り調べたのは、このためである。

本件については、形式的には、これを有罪と認めるに足りる一応の証拠がそろつているようにみえる。すなわち、被告人等の検察官に対する各自白があるばかりでなく、最初の二十五万円の授受が本件号外頒布の直後に行われたこと、次の三十万円の授受が田中栄一当選の直後に行われたこと、田中栄一が被告人安井の実兄である安井知事に代つて立候補したものであること、被告人安井が田中の立候補後選挙運動者となつたこと等自白を裏付けるような事実も存するのである。いな、本件は、これらの外形的事実を結びつけて被告人等を疑おうと思えば、いくらでも疑える事案である。この意味で、被告人等が本件金員の授受について公職選挙法違反の容疑に問われ、起訴されたのは、不幸なことではあつたが、やむをえなかつたといえる。また被告人安井(以下安井という。)の行動には、今日から考えると、将来を期待される政治家として、本件金員の授受、特にその時期についてやや慎重さを欠くものがあつたと思われる。

しかし、安井と柳原等との間の従来からの関係、各金員が授受されるに至つた経過、田中と安井との当時の関係、等の客観的事実を、捉われない立場で、し細に検討すると、右各金員は議会新聞等に対する賛助金として授受されたものと認められ、号外頒布等の報酬として授受されたものとは認めがたい。したがつて、この点に関する被告人等の自白は信用できない。

以下項を分つてその理由を詳述する。

(一)  安井が昭和三十三年四月七日頃柳原等に二十五万円を供与した事実(起訴状第二(一)第三(一))について。

右金員の授受は、次にかかげる諸事実からみて、号外頒布等に対する報酬として行われたものとは認めがたい。

(1) 昭和三十三年四月七日頃安井が議会新聞に対する賛助金として、柳原等に二十五万円程度の金員を供与しそうな客観的状況が存在したこと。

すなわち、

(イ) 柳原等は、昭和三十年頃、東京都庁内の、いわゆる庁内紙経営者中の実力者として、従前多くのクラブに分かれて庁内に割拠していた庁内紙を一つのクラブに統合し、都政記者クラブを設立し、昭和三十一年五月頃には、その会則も整備され、正式に代表委員六名も選任されたが柳原等はもちろんこの代表委員に選任され、従来からの関係もあつて、依然として真の代表者として動いていた。この統合は、当時東京都知事であつた安井誠一郎(以下安井知事、または知事という。)をはじめ、都行政当局および都議会方面の要望にそうものであつた。そのようなこともあつて、柳原等は、同年暮頃以降盆暮ごとに、都政記者クラブに対する賛助金ということで、安井を通じ、安井知事から、二十万円または三十万円位の金員を貰うようになつた。(被告人等の供述および検察調書、安井誠一郎の証言、都政記者倶楽部代表委員に関する件と題する書面、都政記者倶楽部会則参照。)

(ロ) 安井が柳原等に「賛助金」を交付するにあたつては、あらかじめその金を安井知事から受け取つておくことは少なく、自分の所持金で立て替えておき、知事とは事前または事後に簡単に連絡するのが普通であり、立て替えた金は後に何らかの形で知事から補てんされることが多かつたが、たがいに政治にたずさわつている兄弟の間柄であるので必ずしもそのようなことが厳密に行われていたわけではなく、安井自身としても、東京都に関係の深い政治家として、柳原等にそのような金をやることが必要だと思つていた。

このように安井知事または安井が柳原等に「賛助金」を出していた主要な理由は、同人等からそれを懇請され、無下に拒絶して、同人等の怨みを買い、その新聞に安井等に不利な記事を掲載される等の不利益を招くことをおそれ、ありがたくないがやむを得ないと思つていたためであり、それによつて、積極的に同人等を利用し、安井等個人のため有利な活動をさせる意図をもつていたためではなかつた。せいぜい都政の伸長に役立たせる程度の気持であつたと思われる。したがつて、柳原等が安井知事等のために積極的に有利な活動をしなければ、「賛助金」が貰いにくかつたという関係は認めがたい。(被告人等の各供述、上条貢、小松藤吉、久保田栄、建部順の各証言参照。)

柳原等は、安井から受け取つた「賛助金」を都政記者クラブのものとして経理することなく、三人で分配して任意に処分していた。同人等としては、自分等は都政記者クラブ内の実力者であり、同クラブの所要経費等を負担することも少なくないのだから、クラブに対する賛助金を右のように処分しても不当でないと考えていた。この点は、日本議会新聞に対する賛助金として受けとつた金の処分についても同様であつた。

ここに後に述べるような問題があつたといえる。(柳原等の供述及び供述調書参照。)

(ハ) 柳原等は、昭和三十二年秋頃から、都政記者クラブ内の弱小庁内紙を統合して同クラブの政策紙という形で、「日本議会新聞」を発刊しようと目論み、昭和三十三年二月には日本議会新聞の創立準備委員会を、同年三月には、日本議会新聞社を設立し、柳原が社長に、田村、武井が相談役に就任し、同年四月一日創刊号を発刊するに至つた。

右弱小新聞の統合も都行政当局および都議会方面の要望にそうものであつた。そこで柳原等は、議会新聞の発刊にあたつて、都政関係者に依頼し、同新聞に対する賛助金または発刊祝ということで相当額の金員の供与を受けた。たとえば、当時の都議会議長上条貢から三月中旬頃十五万円を、同副議長建部順から同月頃十万円を、東京都競馬株式会社社長久保田栄から同月十五日頃十五万円を、都各行政部局から同月頃一万円ないし二万円位をそれぞれ受け取つた。(柳原等の供述、広瀬精一、上条貢、小松藤吉、久保田栄、建部順の各証言、都政記者倶楽部名簿、都政記者倶楽部改制の理由皷会長からの会員あて書面、日本議会新聞機構概要、日本議会新聞定款、同新聞発刊趣旨書と各題する書面、すなわち証第六四五号の一八、二六、二七、二八、二九、三〇号等、久保田栄作成の広告宣伝費支出調書提出の件と題する書面、建部順作成の広告費協力に関する件と題する書面参照。)

(ニ) 柳原等は、昭和三十三年一月頃(以下同年のときはこれを省略する。)から安井知事または安井に対し、数回にわたつて、議会新聞の賛助金を出してほしいと懇請した。安井側は、「賛助しないわけにもいくまいが、まあ発刊にでもなつたら考えよう」という程度の返事をしていた。(被告人等の各供述、安井の検察調書、安井誠一郎の証言参照。)

(ホ) 以上のような経過からみると、議会新聞の発刊後間もない四月七日頃柳原等が安井に対して前記賛助金の供与を依頼し、安井がこれに応ずることは、ありそうなことである。また二十五万円という金額も賛助金として不相応に多額なものとは思われない。柳原等が安井知事ほど緊密な関係にない都議会議長および同副議長から同じ頃それぞれ十五万円、十万円という相当額の金員を議会新聞に対する賛助金として供与されている事実をみると、むしろ安井から右の賛助金として二十五万円受けとつたのは自然なような気がする。

(2) 安井が号外の頒布について事前に柳原等と通謀していた事実が認められないばかりでなく、安井が柳原等から二十五万円の供与に関して交渉を受ける前に安井知事その他の者から号外の頒布に関する連絡を受け、その報酬等について安井知事と打合せをしていたとの事実および安井が右の交渉をうける前に号外をみていたとの事実を認めがたいこと。

すなわち

(イ) 安井が号外の頒布について、事前に柳原等と通謀していた事実をうかがわせる証拠はなにもない。

(ロ) 証人安井誠一郎は当公廷において、四月四日柳原が知事公館に記者達を連れて談話をとりに来たとき、号外を見せて、「このような号外をまきました。これからも大新聞の折込みにでもして沢山まくつもりです。それには金がかかります。」等というので、自分は「そんなことができるかね。そんな馬鹿なことはやめようや」等といつて、本気で相手にならなかつた旨供述した。同人の検察調書には、そのとき柳原が「大新聞の折込みなどするのに経費がいるので少し援助して頂けませんか」と述べた旨の記載がある。柳原の検察調書には、そのとき応接間で議会新聞編集局次長の三浦純が知事に号外のことを話したところ、会談が終つて、応接間から玄関へ出る途中で知事が自分に号外を大新聞に折り込む話をもちかけた旨の記載がある。

ところで、柳原等は、従来他から金を貰う交渉をするときには、三人がそろつて出かけるのを常としていたが(上条貢、小松藤吉、久保田栄、建部順の各証言参照。)

右の知事との会談は、もともと三浦純の発議により、編集部員が知事の談話をとることを目的として行われたもので、田村、武井は参加せず、数名の編集部員が同席していた。(柳原の供述、安井誠一郎の証言参照)柳原がそのような機会に、知事に対してあからさまに号外頒布の報酬を要求し、突つこんだ話をしたとは考えられない。そこでは安井証人が当公廷で述べた程度の話合いがあり、柳原が知事の気を引いてみたが、多数の新聞記者を絶えず相手にしている多忙な知事としては、いつもの金の無心かという位の態度で本気で相手にならず、軽く聞き流したと認めるのが最も自然のように思われる。(安井誠一郎の証言参照)柳原の検察調書の記載は、安井証人の供述に対比すると信用できない。(後記「検察調書の信用性が窺われる理由」参照。なお三浦純の証言も右柳原の検察調書の記載の真実性を保障するに足りない。)いずれにせよ、右の機会に号外の頒布およびそれに対する報酬に関し、柳原と知事との間に、突つ込んだ話合いが行われ、知事がそのことに強い関心をもつに至つたとは認められない。

かように認定することは、柳原等と安井知事との会談の日が、田中が自民党に入党届を出した日と同日同時刻頃であること、したがつて、当時、田中が自民党の公認候補になれるかどうか全く不明であつたこと、右会談に先だつ三月二十九日頃田中が安井知事から立候補をすすめられた際、自民党公認が得られればという留保付で承諾したこと、自民党に籍もない田中としては、その立候補の意思さえ決定的でなかつたこと、安井知事が当時田中の公認獲得等のために積極的に動いた形跡がないこと(安井誠一郎、田中栄一の各証言、安井の供述参照)等の事情にも照応すると思われる。

したがつて、安井知事が右会談後安井に対して号外の頒布に関してわざわざ連絡し、その報酬について打ち合せたとは認めがたい。

柳原の検察調書には、柳原等が四月五日安井方を訪れたとき、安井が「号外のことは知事から聞いている」と述べた旨の記載があるが、そのようなことは、前記のような柳原と知事との話合いの状況からみてありそうなことと思われず、田村、武井の検察調書に同旨の記載がない点からみても、信用できない。この点に関しては、安井誠一郎の証言、安井の供述および検察調書を信用すべきものと思われる。(後記「検察調書の信用性」が疑われる理由参照)

(ハ) 安井が号外を最初に見た時期として確実に認定しうるのは、四月七日の昼頃である。(安井の供述参照)

安井の検察調書には、四月五日午後参議院議員会館の自室の机の上においてあつた号外を見た旨の記載があるが、安井は、当公廷で、それが記憶違いで実は四月七日のことであつた旨述べた。後述のように安井の記憶が必ずしも明確であつたとは認められないこと、号外が四月五日に前記場所にあつたことを立証する証拠がないこと等を考えると安井の供述を排斥する根拠はとぼしいといわなければならない。

それはともかく、安井が四月五日の朝すでに号外を見て知つていたことを認めるに足りる証拠はなにもない。

(3) 四月七日頃安井が独自の判断で、柳原等に対し、同人等が田中栄一のために号外を頒布したことの報酬として、金員を供与するような立場にあつたとは認めがたいこと。

すなわち

(イ) 安井は、三月三十日か三十一日頃たまたま安井知事と電話で連絡した際、同人から、次の衆議院議員選挙に同人の代りに田中栄一を立候補させることになりそうである旨を聞いた。(安井誠一郎の証言、安井の供述参照)

(ロ) 安井は、当時、安井知事の代りに田中栄一を立候補させることに必ずしも賛成でなく、むしろ他の者を推していた。(安井の供述、松野鶴平の証言参照)

安井は、四月四日開かれた自由民主党東京都連合会の候補者選衡委員会に委員として出席した際、他の委員から田中栄一を公認することについて、反対意見が述べられたのに、同人の公認を支持する意見を述べなかつた。(安井の供述、中村梅吉の証言参照)

(ハ) 田中は、三月二十九日頃安井知事から立候補をすすめられ、自民党の公認が得られたらということで大体了承したが、四月初旬頃には公認が得られるかどうか、必ずしも予断を許さない状勢であつた。(安井誠一郎、田中栄一、中村梅吉の各証言参照)

(ニ) 安井は、四月下旬頃田中栄一から選挙運動の責任者になつてほしいと頼まれ、その後同人のために選挙運動をすることとなつたが、それ以前に、同人のための選挙運動をした様子がみられない。(安井の供述および検察調書、田中栄一、岡安彦三郎の各証言参照)

(ホ) 以上の事実からみて、安井は、四月五日または七日頃には田中の選挙運動にそれほど関与していなかつたのではないかと考えられ、同人のために、二十五万円の金員を独自の判断で支出し、またはそれを約束するような立場にあつたかどうかきわめて疑わしい。

(ヘ) 安井は、その当公廷における態度等からみて、真面目な几帳面な性格の持主であると認められ(安井誠一郎、松野鶴平、別所汪太郎の各証言参照)

田中の選挙運動にそれほど深く関与していないときに、同人のために公職選挙法違反の疑いの濃い、柳原等の号外頒布に関し、金員を供与するとは容易に考えられない。

(4) 柳原等が二十五万円の供与を受けるため安井の自宅を訪ねた際、号外を持参し、これを安井に示した事実がなく、またそれ以前にも柳原等が人を介して号外を届けた等の事実がないこと。(被告人等全員の供述および検察調書参照)

(5) 柳原等が四月七日安井の自宅を訪ね、二十五万円の供与を受ける前に安井の自宅を訪ねたかどうかきわめて疑わしいこと。

すなわち

(イ) 公判では、柳原等は、安井を訪ねたのは、四月七日一回だけであると述べ、安井は、第二十一回公判までは、柳原等が四月五日にも訪ねてきたような気がすると述べていたが、第二十三回以降は右は記憶違いではなかつたかと思うと述べている。なお柳原は、右の点について四月五日頃安井の秘書に電話で議会新聞の賛助金のことで伝言を頼みそれから間もなく田村の部屋でまた安井に電話してたところ、秘書からの伝言で七日の日に来いということで、七日の朝行くということの相談がまとまつたのであると述べ、田村も柳原から電話連絡をとつているという話をきいたと思うと述べ、武井は五日には安井を訪ねた記憶は全くない、自分が安井を訪ねたのは七日の一回だけであると強く主張している。

(ロ) 安井が自ら記載したと認められる参議院手帳によると、四月六日の午後の欄に「ツツミの件」四月七日午前の欄に「8.30ツツミ」の記載があるが、四月五日の欄には本件に関する何らの記載がなく(昭和三十四年、証第六四五号の三五、安井の供述参照)、安井の秘書山田が記載したと認められるメモ帳によると、四月七日の欄にだけ八、三〇~九 自宅へ都庁新聞という記載がある。(昭和三十四年証第六四五号の三二、安井の供述参照)

(ハ) 検察調書によると、安井は四月五日と四月七日の二回にわたつて柳原等が自宅に訪ねてきたように述べ(八月六日付同人の調書)、柳原は、「四月四日夕方田村から安井に電話で、連絡したところ明日朝きてくれというので、五日朝田村、武井と一緒に安井を訪ねた。それからまた、四月七日朝安井方へ行つた。」(七月三十一日付、八月五日付同人の各調書)旨述べ、田村は、最初「四月七日柳原から安井が明朝きてくれといつているから行つてくれといわれ、翌八日柳原、武井と三人で安井方へ行つた」(同人の七月三十一日付調書)旨述べたが、その後これを変更し、「四月五日午後、柳原から安井のところへ行こうといわれ、四月七日一緒に安井を訪れた、また翌八日柳原、武井と三人で安井方へ行つた」旨(同人の八月八日付調書)述べ、武井は「四月七日頃、柳原から謙に話したら金を出すということだから明朝一緒に行つてくれといわれ、翌八日の朝柳原、田村と一緒に安井方へ行つた」旨(同人の七月三十一日付調書)「四月六日以前に安井にあつた覚えはない。」旨(同人の八月八日付調書)述べている。

(ニ) 以上の事実に、安井の当公廷における「自分が柳原等に金を出すとき直ぐ出したことはあまりない。二度目位に出すことが多かつた。それで、そのときのことは、はつきりおぼえていなかつたので、いつもの習慣どおり二度きたように述べた。すると、六日が日曜なので五日にきたのだろうということになつた」旨の供述を綜合して考えると、柳原等が本件の金員に関し安井を訪ねたのは、四月七日の朝一回だけである蓋然性が大きい。思うに日時等に関する人の記憶は、これを喚起する特別な事情でもないかぎり、きわめて、あいまいなのが普通である。この意味で検察官に対する各被告人の供述がまちまちなのはある程度当然であるといえる。これに対し、その当時書きとめられたと認められる手帳やメモの記載は、単なる人の記憶に比し、はるかに確実で信用できるものである。一部の検察調書には四月八日に安井方を訪ね金をもらつた旨の記載があるが、これが四月七日の誤りであることは、疑いない。すると、田村の最初の検察調書、武井の各検察調書の記載は、同人等の当公廷の供述内容とそれほど矛盾しない。田村の八月八日付検察調書中四月八日再び安井方を訪ねた旨の記載は、調書作成の日付等から考え相当疑問がある。また一切を自白している武井が安井を三人で訪ねたのは一回だけであると終始強調している点は、この点に関する記憶について武井の自信がかなり強かつたことを示していると思われる。更に安井の手帳以外に秘書官のメモにも、四月七日、八、三〇~九 自宅へ都庁新聞という記載があることも意味深い。これら一切を綜合すると、この点に関する事の真相は、柳原等がほぼ当公廷で主張しているとおりであると思われる。すなわち、四月五日頃柳原が安井に電話したところ、安井がいないので議会新聞の賛助金のことで安井にあいたいと秘書に伝言を頼んでおき、その後間もなく再び電話し、安井の秘書(あるいは安井自身)から四月七日朝安井の自宅にきてくれといわれ、その結果三人で四月七日朝安井を訪ねたのではないかと推認されるのである。

(6) 仮りに柳原等が四月五日頃安井方を訪ねたとしても、その際柳原等が安井に対し号外の記載内容頒布部数、頒布方法等を具体的に説明したとは認めがたいこと。(田村、武井の各検察調書の記載によると、同人等は四月六日号外を飛行機から撒布するより前に安井と号外の件で話し合つた記憶をもたないと認められること、柳原、安井の各検察調書に、柳原等が四月五日安井を訪ねた際同人に対し号外の記載内容、頒布部数を具体的に述べた旨の記載がなく、号外を大新聞に折り込んでくばるつもりであると述べた旨または飛行機で撒布するつもりであると述べた旨の記載はあるが、各調書の記載がくい違い、後述のようにその信用性に疑問があること参照。)

以上に明らかにした(1)~(6)までの事情に照して考えると、本件の二十五万円が議会新聞に対する賛助金として授受された旨の被告人等の当公廷における陳述は、単なる弁解のための弁解とは認められず、むしろ当時の客観的情勢にも符合すると思われる。これに対し、右金員が号外頒布の報酬として授受されたもので、議会新聞に対する賛助金でない旨の柳原等の検察調書、右金員が号外頒布の報酬である趣旨をふくんでいる旨の安井の検察調書の各記載には多くの疑問があり、信用できない部分が少なくない。(この点は更に後述)。以上の観点から、本件について取り調べた全証拠を綜合して考えると安井は、四月七日柳原等に対し議会新聞に対する賛助金として二十五万円を供与したと認められ、同日またはそれ以前に柳原等が安井に対し、あからさまに号外頒布の報酬および費用ならびに将来田中に当選を得させるのに役立つ記事を議会新聞紙上等に掲載することの報酬を要求し、または安井が柳原等にそのようなことをあからさまに約束した事実は認められず、また、安井が四月七日に二十五万円を柳原に渡した際またはその交渉の過程で、柳原等が安井に対して号外を頒布したことまたは将来頒布すべきことを述べた事実は認められるが、その際柳原等が安井に号外の現物を示し、号外の内容、頒布部数、方法等を具体的に述べたとは認めがたく、単に話のついでという形で簡単に述べたにすぎないと認められ、その話が安井が柳原等に前記二十五万円を供与する動機となるほどのものであつたとは認めがたいのである。もつともかような認定に対しては、次のような異論があるかも知れない。「かりに柳原等から安井に対し、あからかさまに号外頒布の報酬としての金員要求の話が出なかつたとしても、そこは明敏な安井のことである。柳原等の話が何を意味するか気づいたはずである。だから号外頒布に対する報酬の趣旨をもふくめて金を渡したとみるべきである。なお、政治家には、同じ金を出すなら、これを少しでも選挙に役立たせたいという気持のあるのが普通である。またときには、十分わかつていても、腹芸でとぼけてみせることがあるものである。安井も政治家である以上例外とは思われない。したがつて、すくなくとも本件は、号外頒布の趣旨をもふくめて授受されたとみるのが正当である。」と。先に述べたとおり、柳原等の心の底に、本件号外の頒布について安井等(安井都知事および安井謙)に恩を売り、議会新聞に対する賛助金の引き出しを円滑にしようという気持等が全然なかつたとはいえないように思われる。しかし柳原等も相当の人物である。大体前例もあり、他の例もあつて、この問題など持ち出さなくても賛助金がもらえそうな状況のもとで、あからさまに号外頒布の対価を要求するとは思われない。むしろ真面目な几帳面な安井の性格等からみて、かようなことを正面からもち出すのは不得策であると考えていたにちがいない。とすると、柳原等が田中のことや、号外のことを話題に供したとしても、断片的であつたと思われる。他方安井の方では、多年つきあいのある新聞記者に対する政治家の儀礼として、ある程度話のばつをあわせるよう受け答えをしたであろうし、色々お世話になります、何分よろしくなど位のことはいつたかも知れない。しかし、安井の性格、また当時の田中と安井との関係、当時の状勢等からみて、安井が選法違反になる疑いのあるような危険をおかしてまで本件金員を出したと認めるのは、酷である。安井の検察調書に、柳原等に対し、「君の新聞社は、そういう号外を出す資格があるのかね」とか「あまり露骨にやつて選挙の事前運動にならないようにして欲しい」とか等いつた旨の記載があるのは、これを安井の当公廷における態度、供述等とあわせ考えると、終始、選挙違反にならないようにと配慮している安井の気持、態度等を物語るものとみるのが自然であつて、選挙違反になるおそれがあるから、ばれないように注意してくれという老獪な態度を示すものと解するのは困難である。まして前記のとおり柳原等が四月五日に安井を訪ねた公算が少ないとすると、安井は、柳原等と右のような話をする前にすでに二十五万円を出す決意をし、それを準備していたのであるから、号外頒布の趣旨をふくめて二十五万円を供与したと認めることは、一層困難である。

そこで、次に検察調書がどういう点で信用できないか、またなぜ信用できないかを簡単に説明する。

(1) 検察調書の信用性

被告人等の各検察調書を莫然と通読すると、本件二十五万円の授受が号外の頒布に関係ないなどといえたものでないという強い印象をうける。これらの供述調書には、種々の点でくい違いがあるが、これも考えようによつては、その供述が強制誘導等によらない証拠であるといえないこともない。しかし、これらの供述調書をし細に検討すると、その内容については、次々に強い疑いを生ずる。まずこれらの疑問は、安井の検察調書については、同人の詳細な弁明によつてほぼ説明がつき、同人の当公廷における供述と本質的にくい違うものとは思われない。すなわち、同人が記憶のはつきりしないままに莫然と述べたことがはつきり述べたように書かれたり、断片的な問答の結果が、筋道たててつづりあわされたり、議会新聞の賛助金として交付したと述べたことが、理詰めの尋問によつて、いつか号外頒布の趣旨をふくむと述べたことにされたりしたこと等である。それに対し、柳原等の検察調書の内容は、ほとんど三人三様で、会談の内容等についての各供述のくいちがいには、単なる記憶違いや表現の差異とは認めがたいふしがある。また柳原等の検察調書については、本件二十五万円がもつぱら号外頒布等の報酬として要求され、供与されたもので、議会新聞に対する賛助金とは全く別のものであることおよび安井があらかじめ号外頒布の事実をよく知り、その報酬のこともよく心得ていて、進んで右二十五万円を供与してくれたことを強調する傾向がみられ、同人等の当公廷における供述と根本的に異なつている。しかもこの点は、安井の検察調書に終始議会新聞に対する賛助金の趣旨もあつた旨の記載があること、および前記の諸事情、特に議会新聞発刊の経緯、これについての柳原等と安井との交渉の経過、安井が柳原等にあう前に安井知事から号外のことについて連絡を受けたと認めがたいこと等の事情に照らし、かえつて不自然なように思われ、柳原等がなんらかの事情で検察官に対し、ことさらに虚偽の、あるいは迎合的な供述をしたのではないかとの疑いが強い。では、なぜ柳原等は、検察官に対しかような供述をしたのであろうか。

(2) 検察調書の信用性が疑われる理由

(イ) 柳原等の各供述および別所汪太郎の証言によると、

(a) 検察官は、柳原等を逮捕勾留中比較的早い時期から、いろいろな情報にもとづいて、柳原等が号外の頒布の報酬として安井知事その他の者から金員の供与を受けたのではないかとの強い疑いを持ち、柳原等をきびしく取り調べたこと。

(b) 柳原等に対立する庁内紙の経営者達が検察官に対して、種々柳原等に不利益な情報を提供し、それを知つた柳原等は、自分達がきわめて不利な立場にあると考えていたこと。

(c) 柳原等がかつて新聞に対する賛助金名下に会社等から金員の交付を受けた事実について、検察官が恐喝の容疑で若干取調べを行い、柳原等が困惑していたこと。

(d) 柳原等が勾留中それぞれ経営する新聞社のことを心配し、できるだけ早く釈放されたいと強く望んでいたこと等。

が認められる。

(ロ) また柳原等は、次に述べるような理由により、検察官に対し、安井から貰つた二十五万円を、号外の頒布とは無関係な、議会新聞の賛助金であると強く主張しにくい状況にあつたと認められる。

(a) 柳原等が号外を頒布したのは、従来賛助金名下に金員の供与を受けており、将来もそれが期待される安井および、安井知事の観心を得る意図をもつてしたと認められること、(前掲各証拠参照)

(b) 柳原等が本件二十五万円を安井から受けとり、またはその交渉をしたとき、安井に号外を頒布した旨を述べたこと、(被告人等の供述参照)

(c) 柳原等が二十五万円を議会新聞の経理に入れないで、三人で分配してしまつたこと。(柳原等の供述参照)

(d) 議会新聞の社員または他の庁内紙の経営者中に、柳原等の賛助金の集め方や処理方法を非難する者が少なくなく、それ等の者が検察官に対して情報を提供していたこと。(柳原等の供述参照)

(e) 検察官が賛助金の受領を恐喝の容疑で取り調べていたこと。

(ハ) また柳原等は、本件二十五万円の供与を受けた件について検察官の取調べを受けたときには、すでに号外の頒布の事実を自白しており、自分等が全面的に無罪であると主張し得ない立場にあつたと認められる。

(ニ) 以上の状況を考えると、柳原等は、検察官から数日間にわたつてきびしく追究された結果、本件二十五万円について、あくまで号外頒布の報酬でないと言い張るのは困難な状況にあつたので、どうせ罪になるのならむしろ右金員を号外頒布の報酬として貰つたと述べて検察官の歓心を買う方が得策であると考えるに至つたのではないかと疑われる。(なお前記のような状況を考えると、柳原等が当初安井から金員の供与を受けたこと自体を否認していたことは、必ずしも同人等が本件二十五万円を号外頒布の報酬と考えていたと推測する根拠とはならないと思われる。)

しかも、一旦そのような自白したのちは、自分達が勝手に号外を頒布して渋る安井に金をねだつたわけではなく、安井、または安井知事がよく事情を知りながら、進んで金をくれたことを強調して、自己の犯情をよくみせ、あわせて、供与者側を追究しようとしている検察官の歓心を得ようと考えることもありそうなことである。

柳原等の検察調書に、前記のように、安井が号外頒布の事実をあらかじめ十分知つており、報酬のことものみこんで、進んでそれを供与した趣旨の記載等のあるのは、右のような事情のためでないかとの疑いが強い。本件二十五万円が議会新聞に対する賛助金とは別であることを強調する趣旨の記載、安井が柳原等に対し、積極的に田中栄一の応援を依頼した旨の記載等についても同様である。

(ホ) このように迎合的な供述をしたことを疑わせる状況は、特に柳原において顕著である。

(a) 証人別所汪太郎は、当公廷において「柳原は一旦自白するとなると、きれいに百パーセント自白した。他の被疑者が一部否認していることを告げると、自分がこれだけ真実を述べているのに、そうゆういい加減なことを言うのはけしからんとののしつた。柳原は、前の都庁の汚職事件のときに、伊藤検事に情報を提供するというか、非常に協力した立場にあつたので、本件で自分に対しても非常に積極的に供述したという印象を受けた。」旨供述した。

(b) 他方柳原の検察調書を他の諸証拠と対比すると、柳原が情状をよくみせるため、自らが主導的地位にあつたことを否定し、他の者が積極的に行動したことを強調した虚偽の供述をしているのではないかと思われる個所がきわめて多い。

(c) 柳原は、勾留中検察官に対して都庁内の事情に関する情報を提供することを約束し、釈放後その件で検察官をたずねたことがある。(別所汪太郎の証言、柳原の供述参照)

(d) 柳原は、釈放後検察官のところへ行き、「安井側の弁護人から自分の弁護人に対して、本件の金銭の授受を公判では柳原等の安井に対する恐喝ということにして貰いたい、そのことで一席もうけたいという話があつたが断つた」などという全くでたらめの事実さえ述べた形跡がある。(別所汪太郎の証言、柳原の供述参照)

以上の状況を綜合し、柳原の経歴、当公廷における態度等を考えると、柳原が前非を悔いて真実を述べ、検察官の捜査に協力したとは認めがたく、むしろ検察官に対する証拠または情報の提供者となつて検察官の歓心を買い、いわばそのお気に入りとなつて、有利な扱いを受けようとしたのではないかとの疑いが濃厚である。

田村、武井については、柳原ほど顕著な状況は認められないが、同様の心理状態にあつたのではないかと疑われる。

(ヘ) 柳原等の検察調書の間にくい違いのあることは、必ずしも同人等の供述が迎合供述でない証拠とはならない。なぜなら、前述のように、そのくい違いが記憶違いや表現の差異によつて生じたにしてはあまりに大きすぎるうえ、柳原等の能力、性格等からみると、同人等は検察官に迎合して供述するばあいにも、ただ検察官のいうことを黙つて認めるのではなく、むしろ積極的にいろいろなことを述べることが多いと思われるからである。

以上に明らかにした理由で、被告人等の検察調書の内容には信用しがたい点が多く、これをもつて、本件金員が議会新聞に対する賛助金であつて号外頒布の報酬ではないとの前記の認定を左右することはできない。

(二)  安井が昭和三十三年五月二十九日頃柳原等に三十万円を供与した事実(起訴状第二(二)、第三(二))について。

(1) 被告人等の当公廷における供述および検察調書によると、次の事実が認められる。

昭和三十三年五月二十六日頃の朝柳原等が安井方を訪れ、同人に対し田中栄一が衆議院議員選挙に当選した祝いを述べたのち、「新聞の経営が苦しいのでいくらか賛助して頂けませんか」と懇請し、「いつもは選挙のときは金が入るのですが、今度の選挙では、号外の件で丸の内警察署の捜査を受けたりしたので、さつぱりでした。四月に頂いたばかりなので申訳けない次第ですが、月がこせないような有様なので、是非御援助頂きたい。」等と述べた。「安井が選挙が終つたばかりで時期が悪い」等といつて断ると、柳原等は、「それではどこか、金融してくれるところを世話して頂けませんか。」「お盆に頂く賛助金の前渡しということでお願いします。」「われわれも大変困つているのです」等と頼み込んだ。安井は、「それでは自分が何とか調達してやろう。しかしこの金については、一札証書を入れてもらいたい」と述べた。同月二十九日頃の朝柳原等が再び安井方をおとずれ、格別の話もなく、安井から現金三十万円を受け取り、引換えに振出人として三名が連署した同額の約束手形を差し入れた。

(2) 以上の経過を通じ、柳原等が安井に対しあからさまに号外頒布の報酬を要求し、または号外頒布の事実を強調するようなことを述べた事実は認められない。むしろ柳原等が金に困つて安井に泣きつき、間もなく貰える予定のお盆の賛助金をひきあてにして、何とかしてほしいと頼み込み、安井が渋々これを承諾したというのが実情のように思われる。

(3) 次のような状況を考えると、仮りに号外の頒布ということがなかつたとしても、右のようなことはありそうに思われる。

(イ) 柳原等が昭和三十年暮頃以降盆暮ごとに安井を通じ、安井知事から二十万円ないし三十万円位の賛助を受けていたこと。((一)(1) 参照)

(ロ) 柳原等は毎年六月中頃から盆の賛助金を各方面に懇請して歩くのが普通であつたが、それ以前でも金に困ることがあると、「盆の賛助金として頂くお金を少し早目に出して下さい」と頼んで、一、二ヶ月前に金を貰うことがあつたこと。(柳原等の供述および検察調書 (二)の事実参照)

(ハ) 柳原等が昭和三十三年五月末頃非常に金に困つていたこと。(同前)

(ニ) 柳原等が同年五月三十一日頃東京競馬株式会社から賛助金として二十万円を受領していること。(久保田栄の証言および同人作成の広告宣伝費支出調書提出の件と題する書面参照)

(ホ) 安井から柳原等に対する盆および暮の「賛助金」は、それを渡す日が確かり決まつていたわけではなく、大体盆暮近くに柳原等が安井または安井知事に懇請し、安井等が適宜日を決めて約束するのが通常であつたと認められること。(被告人等の供述参照)、また前記のような賛助金の性格からみても、安井が柳原等から窮状を訴えられ、一、二ヶ月後に渡すべき賛助金の前渡しということで援助頂きたいなどと熱心に積み込まれれば、安井が右の依頼を承諾する蓋然性が大きいと思われること。現に安井は柳原等に対し昭和三十二年暮に渡すはずの賛助金を同年十一月頃に渡していること(被告人等の供述)。

(4) このように考えてくると、本件三十万円は、柳原等の経営する新聞に対する賛助金ということで授受されたと認めるのが相当である。柳原等が号外を頒布していなかつたら、安井が右三十万円を供与することはなかつたとは認めがたく、右の供与が号外頒布に対する報酬という趣旨をもつとみるのは困難である。

(5) 被告人等の各検察調書には、本件三十万円が号外頒布に対する報酬である旨の記載があるが、右記載は(一)で詳述したと同様の理由で信用することができない。

(6) 柳原と武井が昭和三十三年七月十日頃安井知事を訪ね、賛助金を懇請した事実(柳原、武井の供述および検察調書、安井誠一郎の証言参照)は、必ずしも安井が同年五月末頃柳原に供与した三十万円が賛助金でないことを推測させるものではない。なぜなら、右知事に対する懇請は、柳原等三人が十分相談し、熟慮してしたものではなく、武井の思いつきに柳原が同調してしたものと認められ、武井等の人柄からみると、同人等が同年五月末に安井から三十万円を貰つてはいるものの知事にたのめば更になにほどか貰えるかも知れない。貰えればもうけものだし、断わられてももともとだという気持で、一応知事にあたつてみるということもありそうなことのように思われ、懇請を受けた知事は適当にこれをあしらい、武井等もくどく言い張らず、その後安井のところへ懇請に行つたこともないと認められるからである。なお、安井が五月末に柳原に三十万円を与えたことを安井知事に連絡したかどうか疑問であるが(安井の供述および検察調書、安井誠一郎の証言参照)、仮りに連絡しなかつたとしても、それは必ずしも前記三十万円が賛助金でなく号外頒布等の報酬であつたことを推測させるものではない。なぜなら、三十万円が号外頒布の報酬であつた場合にも、安井がそれを安井知事に連絡する方がむしろ自然であり、この点賛助金の場合とそれほど異ならないと思われるからである。

(7) 以上の理由により、安井が同年五月末頃柳原等に供与した三十万円は柳原等の経営する新聞に対する賛助金であると認められ、号外頒布に対する報酬とは認め難い。

(三)  以上詳細に述べた理由で、前記各公訴事実については、結局犯罪の証明がないといわなければならないので、刑事訴訟法第三百三十六条に則り、無罪の言渡しをする。

そこで主文のとおり判決する。

(裁判官 横川敏雄 緒方誠哉 吉丸真)

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